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ここに逞しき『ハポネス』ありF
この国は可能性ある理想郷 バックパッカー から貿易会社社長に近沢真理さん



 赤道が通るエクアドルといえば「とても暑い国」だと連想しがちだが、港町グアヤキルや東部熱帯地方など一部の地域は別としても、この国はフンボルト海流(寒流)の影響で、比較的すごしやすく温暖な地域が多い。

 とくに山岳地方にある首都キトは、海抜二千八百五十メートルに位置するため、年間を通して日本の春のような気候である。高地なので蚊に悩まされることもない。

 町並みも一五三五年に建立された南米最古の教会がある旧市街、近代的かつ緑豊かな新市街に区分されており、南米各都市の中でもキトは環境に恵まれている。

 日本の移民政策が行なわれなかったエクアドルには日本人が少なく、同国日本大使館によると邦人定住者は国内に百七十三人(〇七年度)を数えるのみ。そのうちキトでは八十二人(同)が生活している。

 そんな僅かな日本人のひとり、貿易代理店を経営する近沢真理さん(六一、北九州市出身)は、自身のオフィスでスペイン語の現地新聞を広げ、毎日じっくりとこの国の情勢を読む。

 「独立して商売をするんだったら日本人が少ない国のほうが可能性があると思い、エクアドル移住を決めた」という近沢さんは、北九州大学ラテンアメリカ研究会の学生だった六七年、キャバレーのウエイターなどのバイトで稼いだ資金で、二年間の南米放浪を経験した。

 その時は渡船費用を節約するために、貨物船でペルーのカヤオ港まで行き、そこからヒッチハイクで南米大陸を回った。寝床は同郷の移民の家に泊めてもらっていた。

 最終目的地の米国ロスアンゼルスでは、レストランで三か月間の皿洗いをして渡航費を稼ぎ、帰国している。

 「いまでいうバックパッカー(鞄一つで世界を放浪する貧乏旅行者)の走りみたいなもんだったよ」と、その当時を振り返り豪快に笑う。

 帰国後、北九大を卒業した近沢さんは、その頃ブラジル進出を計画していた第一製薬に勤めた。「ブラジルに駐在できるかもしれない」と見込んでの入社だったが、その目論みは見事にはずれてしまう。

 勤めだして三年後に同社はブラジル進出を断念。自身もはじめからエリートコースに乗る気などなく退社届けを出した。

 そして心機一転、「駐在ではなく南米に移住しよう」と決意を新たにした。

 七五年当時のエクアドルは石油の輸出がはじまったばかりで、「これから発展する可能性がある国だと思った」という。また、日本人が少ない地とあって「エクアドルこそ俺の理想郷だ」と、二十八歳で再び日本を飛び出した。

 キトに移住して間もなく、進出企業の伊藤忠商事から声が掛かった。その後、同社に六年間勤務したのち三十五歳で独立。現在の貿易代理店を立ち上げた。

 日本人とは接触の少ないこの国で、スペイン語を駆使しながら独立開業するのは人一倍の努力を要したが、近沢さんの勤勉、誠実さがエクアドル人から認められ、事業は伸びた。

 現在は主にアジアで生産される農工用機械や合成繊維などの輸入代行を行なっている。

 仕事以外での趣味は週二回のゴルフと、「日本人が少ないので対戦相手が一人しかいない」と嘆く将棋。キトの生活環境は抜群にいいが、唯一の問題は同国のケーブルテレビが英語版のNHKしか配信しておらず、そのため日本の情報には疎いことだという。

 このような国に永住した宿命なのか定かではないが、日本人女性との縁がなく、還暦を過ぎた今でも独身生活を続ける近沢さん。「自宅に帰ればエプロンをつけて台所に立ってますよ」と、苦笑いしていた。

(つづく、吉永拓哉記者)



写真:オフィスで現地の新聞に目を通す近沢さん



2008年10月31日付











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